3.11から10年 あの日何が…静岡から現地へ③ 病院周辺が瓦礫の山 「息をのむ光景が広がっていた」
待機命令が出ていた医師の矢野さんに要請が入りました。
災害派遣医療チーム 矢野賢一さん:「宮城県の石巻市に『手術を中断した方がいるので、その方を搬送してほしい』と。向かった先は、宮城県の石巻市立病院。息を飲む光景が広がっていました」
「そこに病院がぽつんとあった」
災害派遣医療チーム 矢野賢一さん:「ぽつんとそこに病院があって、ただ周りはもう瓦礫の山。もうぐしゃぐしゃですね」
大量の瓦礫の中に取り残された病院。事態は深刻でした。
災害派遣医療チーム 矢野賢一さん:「これだけ被害に遭っているので、『大丈夫ですか』って聞いたら、『いや大丈夫じゃない』と。『救助を何度も要請しているけど、誰も来てくれない』と。150人くらいの患者さんが入院していて、水もない、食料もない。そういう中で患者さんを守りながら、13日まで持ちこたえていた状況」
孤立無援の石巻市立病院。しかし、矢野さんが乗るドクターヘリで運べるのは1人だけ。病院の状況をディーマットの運営本部に報告しても…
「それはドクターヘリの仕事ではない 自衛隊の仕事だ」
災害派遣医療チーム 矢野賢一さん:「ジレンマですよ。ものすごいジレンマです」
突然の過労死
【2011年3月14日 午前3時すぎ】
矢野さんが粘り強く患者の搬送を本部に要請したことで、ドクターヘリ6機が石巻市立病院へと向かうことに。
災害派遣医療チーム 矢野賢一さん:「患者さんのうち70数人ぐらいは搬出できた。(14日の)夜10時か11時ぐらいですかね、自衛隊機で全員搬出した」
矢野さんには忘れられない人がいます。石巻市立病院の医師・内山哲之さんです。
災害派遣医療チーム 矢野賢一さん:「ヘリの音がしたら真っ先に出てきて、状況を説明してきた。胸のあたりまで水に浸かりながら、救援を要請して。2012年2月に学会でお会いして、その時もお酒一緒に飲んだんですけど。明るい先生だし、豪快な先生。仲良くずっとしていた。1年後に視察に行きたいということで、『あす行きますから』ってメールしたら返事がない。過労死なんですね」
内山さんは震災の1年後、この世を去っていました。最後まで石巻市で医療にあたっていたそうです。
災害派遣医療チーム 矢野賢一さん
「被災した方を救助する方も、かなりのストレスを受けるだろうと思います。柔道されている方で健康ではあったんですね。その方が亡くなってしまう。付き合いはほんの1年ちょっとしかなかったんですけど、1年ちょっとでも、濃密だったなあと思います」
被災直後の東北を知っているからこそ伝えたいこと
静岡県救急部隊隊長(当時) 朝比奈孝さん 朝比奈孝さん:「(津波の)第一波が来たときに、その波は防波堤で打ち返されたということで、家のことが心配になって戻った人たちが被災したということだそうです。想定外の出来事、それを越えた可能性もあるというのは、常に頭の中に置いとかないといけないんだなと感じています」
静岡県指揮隊副隊長(当時) 望月寿成さん:「助けを求めている人があれば、協力して助けるというのが共助だと思う。隣近所の方と協力して命を守ることは、被災地の方はよくやっていたと思います」
災害派遣医療チーム 矢野賢一さん:「被災した街並みを見ましたしそのあとも1度2度3度と行ったのかな。わかるけども、それは外から見た人間で、現地の人の感情ではないと思います。本当の怖さっていうのは僕の中では知っていないんだろうなぁと」
Q.あれから10年…
静岡県救助部隊隊長(当時) 成澤央久さん:「今考えると、あっという間かな。もっと何か出来たんじゃないかとか、悔いとは違うかもしれないけど、我々の活動が被災地のためになったのか、ずっと自問自答を続けています」
(3月10日放送)