【シリーズ終戦】語り継ぐ75年前の静岡空襲 希望を次世代へつなぐ 静岡市
駿河区の井上弘士(いのうえ・ひろし)さん、85歳。75年ぶりに訪れた葵区一番町。今は特別支援教育センターになっていますが、ここに井上さんがかつて通った小学校がありました。
「一番町国民学校」。心身を鍛えようと、乾布摩擦をしたり、体育の授業では、男子は木刀、女子は薙刀を習ったりしていました。
「お国のため」…。 井上さんは、軍国少年でした。
井上弘士さん
「私はね、通信兵、モールス信号ってあるじゃん。そういう兵隊になりたいなって」
「日本は勝つ」と教えられ、勉学に励んでいました。しかし、街は一夜にしてその姿を失います。
静岡空襲 炎から逃げ回った
1945年6月20日、未明。アメリカ軍の爆撃機B29が、暗闇の旧静岡市を襲いました。2時間降り続いた焼夷弾。街には、逃げ惑う大勢の人がいました。
井上弘士さん
「お父さんたちはこれじゃあ焼け死ぬから、みんな水のある場所に逃げろと。この道路がね、人でいっぱいなんですよ。この広い道路がですよ。こっちからも向こうからも人でいっぱいで、全然動きが取れないんですよね」
当時、小学5年。72歳の祖母の手を引きながら、炎に包まれた街を逃げ回った時の記憶が今でも残っています。
井上弘士さん
「こういうアスファルト、足乗せるとずぶずぶって沈むんですよ。歩くとあとが残る、靴の跡とか下駄の跡が残る」
背後にも行く手にも炎が…。井上さんたちは、炎の中に飛び込みました。
井上弘士さん
「向こうの七間町通りを突っ切った。火の中抜けなきゃしょうがないっていうことで、怖いとか全然なかった」
一夜にして、跡形もなくなってしまった静岡市。およそ2000人もの市民が犠牲となりました。
翌朝、井上さんが家までの道を辿ると至るところに黒く焼け焦げた遺体が。
井上弘士さん
「遺体を見てね、どうこうとか感じない。かわいそうとか何とか、 そういうこと何にも感じずに、自分の身を守るのに精一杯だったね」
『人』の感覚を奪った戦争。あれから75年が経ちました。
戦争の記憶を後世に伝える
「空襲の話は地域、場所によっても話は違う。100人に聞けば、100の話がある」
井上弘士さん
「やっぱり書いて残すしかないよね。今もう、戦争に関わった人は90歳以上人ばっかでしょ。そういう人の話なんかも」
井上さんは戦争の史実や、知人から聞いた当時の話を書き留めています。そして、このノートをもとに空襲の体験を語り継いでいます。
井上弘士さん
「若い人に託せば、もっと戦争とか空襲とか、こういうことがあったんだって知らせてもらって。絶対、平和で、いて、もらいたいですね」
戦後75年。当時を語る人が少なくなる今、残された「希望」を私たちは受け継がなければなりません。