3.11から10年 あの日何が…静岡から現地へ② 「生存者を救いたかった」「無力感を感じた」
静岡県救急部隊隊長(当時) 朝比奈孝さん:「着くまでは倒壊している建物も少なくて、あれって思ってた。ですけれども、海岸線に近づくと様相が完全に一変して、自然の力の怖さを感じました」
海岸線に近づくと様相が一変 「言葉も出ない」
福島県いわき市に到着した消防隊。甚大な被害を目の当たりにします。
静岡県救助部隊隊長(当時) 成澤央久さん:「もう残っている建物はない状況でした。正直、言葉が出ない、そういう状況です。これだけ津波の威力はすごいと実感した」
72時間以内に助けたい
静岡県救急部隊隊長(当時) 朝比奈孝さん:「発災から72時間。それを過ぎると生存者が少なくなるというのが、過去の統計とかデータで出てるもんですから、72時間以内に助けたいっていうことで早く…」
その思いとは裏腹に、捜索活動は難航。津波の恐ろしさと向き合うことになります。
災害派遣医療チーム 矢野賢一さん:「僕らの中の地震のイメージって阪神淡路大震災のイメージ。建物倒壊してあちこちから火の手が上がって煙が上がってそれが地震だろうと、建物の倒壊によるけが人、死者というのはさほど多くない。ほとんどが沿岸部で津波による被害ですね」
「無力感を感じた」
静岡県救急部隊隊長(当時) 朝比奈孝さん:「倒壊家屋の中で抜け出せないとかなら助け出せるかもしれないが、津波によって溺れて死ぬという状況なので、どうしようもないという、無力感を感じました」
現地の指揮隊として遅れて被災地入りした望月さん。地震が起きた3月に観測された余震は、2941回にのぼりました。
静岡県指揮隊副隊長(当時) 望月寿成さん:「堤防に乗って海の状態を見ていたときに震度4の地震があった。あの当時の津波が来れば、もう私は終わりだなと思ったことはありました。怖かったですね、今でも思い出します」
スーパーレスキューの部隊長だった成沢さんが今でも忘れられない記憶…。
静岡県救助部隊隊長(当時) 成澤央久さん
(写真指さして)これ自分ですね…
成澤さん
「規制も張られてなかったので、一緒になって、その地域の住民の方から情報を得ながら、(捜索を)やったこともあります」
成澤さん
「若い夫婦が『おじいちゃんがこの家にいたはずなんだけど』って。捜索したところ、家の裏側で梁に挟まれてお亡くなりになってるおじいちゃんを発見して、『ありがとうございました』と言っていただいたことを思い出します。被災地のために人命救助が最大の任務だとわかっているんですけど、結果的に1人も救えなかったことが、その結果がほんとによかったのかというのはあります。生存者を救いたかった」
静岡県隊は3日間の捜索で生存者を発見できず…
静岡県救急部隊隊長(当時) 朝比奈孝さん:「72時間以内に助け出したいという気持ちは持っていましたね。実際には発見に至らずというとこです」