【独自】 「拉致問題を考える国民の集い」初めて静岡県で開催 50年以上弟の行方を探し続ける兄が思いを語る
11月29日、静岡県で初めて「拉致問題を考える国民の集い」が開かれました。今回50年以上弟の行方を探し続ける兄が初めて、テレビカメラの前で思いを語りました。
川﨑豊記者
「こちら静岡県警のホームページでは、拉致の可能性が排除できない11人の方々の情報が掲載されています」
11人のひとり、望月明さん。
53年前、東京・江戸川区のアパートに手紙を残し、行方が分からなくなりました。
静岡県警のホームページに掲載されて10年以上経ちますが、写真はこの1枚のみ。
今回、望月さんの兄が初めて取材に応じました。
望月弘徳さん
「こちらが写真ですね。はい」
兄の弘徳(ひろのり)さんは弟・明さんの写真を複数用意してくれました。
2人は川根本町生まれの4人兄妹。
公務員の父と専業主婦の母、弘徳さんの兄と姉、それと2歳違いの弟の明さんです。
望月弘徳さん
「今は父も母ももういませんし、兄もこの間ついに亡くなったんです」
表舞台に立つと決めたのは、明さんの肉親が弘徳さん一人になったからです。
望月弘徳さん
「本当に優しい弟でしたね。はい。本当に私にとっては最高の弟です」
大学生で上京した明さんを、一度就職してその後大学生となった弘徳さんが追い、千葉県市川市で兄弟2人の暮らしが始まりました。
望月弘徳さん
「最初四畳半で2人で生活してたんですけど、まずお手洗いも台所も共同。お風呂場がないから、銭湯行ったんですよ、当時。ちょうど父と母が2人大学にやるのは大変だと。1人でも精一杯なのに、どっちかバイトやってくれないかって言われましてね。そしたら(明さんが)兄貴、俺新聞配達をやるよっていうことで大学3年から始めたんです」
明さんが新聞配達、弘徳さんが夕方から中華料理屋でコックの見習い、二人三脚でした。
望月弘徳さん
「(明さんが)新聞配達してたらホームレスに出会ったんですね。そのホームレスを新聞配達にさせちゃったんですよ。彼は銭湯に連れてって、彼を更生させようとして」
明がいなくなった…
優しく気のいい弟が卒業を控え、ひとり東京・江戸川区に住まいを変えた1972年。
望月弘徳さん
「ちょうど(明さんの)アパートにいとこが横に住んでまして、いとこから連絡ありまして、明がいなくなったよっていいましてね」
残された置手紙は警察に提出しましたが、父が書き写したものを、弘徳さんは今も大切に持っています。
望月弘徳さん
「思うところがあり、少し旅に出ます。私の荷物は兄さんのところに運んで預かっておいてください。」
弘徳さんは静岡の百貨店に就職し退職後も全国を飛び回っていますが…。
望月弘徳さん
「夜仕事終わってから2時間ほど外に出るんですよ。人の流れを見て、弟がいるんじゃないかっていうことを、この20年間ずっと探してきました。だけど、結局はいなかったんですけどね。毎日夢を見ます。弟が帰ってくる夢を」
30年ほど前、母が亡くなりました。
弘徳さんのもとに静岡県警の警察官がおとずれたのは2002年に拉致被害者が北朝鮮から戻ってきて少し経った頃。
望月弘徳さん
「警察の方2人来まして、拉致されてる予測がありますと」
ほどなくして、今度は父が亡くなりました。
望月弘徳さん
「最後の最後、父の耳元で、親父ごめんね。30年も留守にして、悪かったね。明だよ帰ってきたよっていうことで、俺うそ言っちゃったんですよ。そしたら父が最後に涙を出して。ぽつりと」
「拉致問題を考える国民の集い」
高市総理
「既に北朝鮮側には首脳会談をしたい旨、お伝えをいたしております」
拉致被害者の家族が高齢になる中、高市総理に変わり、今再び被害者奪還の機運が高まってきています。
11月29日、静岡県で初めて「拉致問題を考える国民の集い」が開かれました。
弟の消息を少しでも知りたい。思いを胸に弘徳さんも壇上に上がります。
望月弘徳さん
「実家の千頭ではインスリンを打ちながら父は『何とか俺はあいつが帰ってくるまで頑張るんだ』そう言って頑張っていました。私の女房も今年亡くなりました。女房が最後、二階の部屋空いてるから(明さんが)帰ってきたらちゃんと面倒見てね。そう言われました。こんなつらいこと、本当につらいことはもう二度としたくありません。一刻も早く、この拉致被害が解決できますように心から祈り、また今日のこの拉致被害(者)を助ける会が北朝鮮に伝わればいいかなと思っております」
静岡県内には現在、拉致の可能性を排除できない行方不明者が、詳細が公表されていない人を含めると22人います。
Q:明さんの帰りを
望月弘徳さん
「もう命ある限り待ちます。亡くなった女房も言ってました。お父さん2階あけてあるから、帰ってきたら必ずここで世話してねって、そういう言葉をずっと守っていきたいと思います」

