「もう一度、野球がしたい」 18歳の球児、がんと闘った1年半 突然の宣告は高2の秋…弟が遺志を継ぎ 浜松市
吉岡優君 18歳 「野球をやっている時間が好きでした」
吉岡優君:「やはり、野球をやっている時間が好きでした」
浜松市に住む吉岡優君、18歳。4月20日、そう語っていました。吉岡君は、横紋筋肉腫という小児がんを患っています。 吉岡優君:「薬の影響で少し眠いですけど、元気な方です」
横紋筋肉腫は、骨や筋肉になるはずだった細胞から発生した悪性腫瘍。日本では年間100人ほどしか発症しない珍しい病気。発症する詳しい原因はわかっていません。
高2の秋 公式戦でホームラン しかし…
小学1年生から野球をはじめた吉岡君。中学時代には、硬式野球チームの磐田ボーイズに所属し、仲間とともに切磋琢磨してきました。浜松湖東高校では、1年生から公式戦に出場、2年生の秋には、新チームで4番バッターになりました。 そして、なんと公式戦でホームラン。しかし、この時すでに、病魔は忍び寄っていたのです。
吉岡君:「最初は2週間に1回、熱が出てしまって。市販の薬を飲んですぐに治ったので、ただの風邪だなと思っていたんですけど、だんだん熱のスパンが早くなってしまって、血液検査とかしてもらったら異常があると言われてしまいました」
高校2年の11月に告げられた、がん。転移が認められた、ステージ4と判定されました。
吉岡君:「もう野球ができなくなっちゃうのかなと思って、悲しい気持ちになったんですけど、主治医の先生とかが、『頑張ればできるようになる』と言ってくれたので、治したいと思うようになりました」
もう一度野球がしたい 支えてくれた球友
もう一度、野球がしたい。おととしの年末、吉岡君は抗がん剤と放射線治療を始めました。
つらい闘病生活を支えてくれたのが、野球で出会った仲間たちでした。その1人が、中学時代のチームメートで、静岡高校のキャプテンを務めていた、相羽寛太君です。
相羽寛太君:「一番最初に聞いたときは本当にショックで、これから優にどういうことを声かけてあげればいいか、わからなかったんでけど、頑張れって言って、優もがんばるって言ってくれていたので」
「いろんな人が支えてくれて、頑張ろうという気持ちにさせてくれる」 そう語った翌日…
吉岡君はがんと懸命に戦いました。高校野球への復帰は叶いませんでしたが、指導者になるという夢を抱き、大学受験をし、見事合格。すべては、仲間とともに、もう一度グラウンドに立つために。
父、孝満さん:「なんとか完治してもう1回グラウンドに立てれるように、なってほしいですけど」
母、有希さん:「きっとグラウンドに立てると思います」
吉岡君:「いろんな人が支えてくれて、みんなで頑張ろうっていう気持ちにさせてくれますね」
そう力強く語ってくれた翌日。自宅で容体が急変、息を引き取りました。小児がんと闘い1年半。18歳でした。
亡くなる10日前、球友に届いたメッセージ「出会えてよかった」
通夜には、中学時代の「磐田ボーイズ」の仲間たちが駆け付けました。吉岡君の弟、秀君に寄り添う相羽君や西川弘純君らは、亡くなる直前まで吉岡君を食事に誘い、励ましていたといいます。
相羽寛太君:「全然信じられなくて、1週間2週間前にご飯いったばっかりで、その時は元気で、最初に聞いたときは、ショックでした」
亡くなる10日前に西川君に届いたメッセージ
西川弘純君:「吉岡の苦しみは僕たちも伝わっていたので、どうにかにして救ってあげたい、というその一心でした」 西川君のもとには、亡くなる10日前にこんなメッセージが届きました。
『ありがとう』『何から何まで』『ひろと出会えてよかった』
父への最後の言葉「お父さん、ありがとう」
感謝の気持ちは、亡くなった当日、父の孝満さんにも伝えていました。 父、孝満さん:「午前中は普通にしててね、『ちょっと寝る』って言ってて『お父さんアイス買って来てー』ってね、弟を塾に送りながらアイス買ってきたら、『買ってきたよー』って。『今食べる?』って聞いたら『今はいい、あとで』ってね。で、そのあとに『お父さんありがとう』って大きな声で言ってね、それが最後の言葉だった。『ありがとう』って言って。本当にね、つらいですね」
球友「もう一度プレーさせたかった。一緒にプレーしたかった」
相羽君 お別れの言葉 「優へ、優、早すぎるよ、こんな突然すぎる別れ。ぼくはまだどう受け止めていいかわかりません。病気と分かった時も俺達にはつらい顔一つ見せず、治ることを信じて治療し続けていたよね。心配する声をかければ、お前は必ず、強い声で大丈夫と言ってきたよな。少しは俺らのことも頼ってほしかったし、弱い姿を見せてほしかったけど、お前は最後の最後まで強い優だったね。でも優、本当につらかったよな、誰かに心配をかけることを本気で嫌がる、誰よりも優しい性格で、だからこそ、もう一度、グラウンドでプレーさせてあげたかったし、一緒にプレーしたかった。優、本当にお疲れ様、そしてありがとう、ゆっくり休んでね」
母、有希さん:「治療を諦めてしまったら、彼とのこの時間はなかったと思う。でも本人は本当につらくて、嫌だといった時もあったが、ここまで乗り越えてきてくれたのが、諦めなかったことで高校も卒業出来て、大学も進学できた。結果はいなくなっちゃったんだけど、諦めなかったら、なんでもできるというのは、彼に教えてもらいました」
相羽寛太君:「亡くなって初めての練習は、気持ちの入れ方とか大変だったんですけど、野球はこれからも頑張っていこうと練習を始めました。グラウンドで野球ができているのは当たり前ではないし、普通に生活しているも当たり前じゃないんで。やっぱり1日1日を大事にして、毎日全力で頑張っていかないとなと思いました」
そして、吉岡君の遺志は、弟の秀君にも…。中学3年生の秀君は、部活に入っていませんでしたが、兄が亡くなった9日後、野球部に入りました。 秀君(14):「兄たちを見て、かっこいいものなんだって。相羽さんとか、西川さんとかいなければ、自分は本当に立ち直れなかったというか、あの2人が特に、ずっと自分のことを心配してくれて、ありがたい存在です」
遺志を継いだ弟…兄が旅立った9日後に野球部入り
兄たちを見て、かけがえのない仲間をつくることができる野球の素晴らしさに気づいたといいます。
秀君(14):「入ったところで、ベンチ入りもできないかもしれないし、ボール拾いかもしれないと聞いてて、でも、みんなとやれるなら、それでもいいって」
秀君は、兄の野球道具を使っています。
秀君(14):「汚れもひどかったんですけど、その分頑張ってたんだなって、今ではなんていうか…勇気になります」
(5月18日放送)