阪神淡路大震災から30年 避難所運営で明らかになる行政による支援の限界と地域住民のつながりの大切さ

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17日で阪神淡路大震災から30年です。この震災をきっかけに災害支援を続ける静岡市の男性を取材しました。

 1995年1月17日。

 神戸市を中心に最大震度7の地震が襲い、災害関連死を含め6434人が犠牲となりました。

 この年はボランティア元年と呼ばれ、発災から1年間で延べ137万人の災害ボランティアが全国から参加しました。

 そのうちの1人松山文紀さん。

 静岡市障害者協会で働きながら災害支援団体の代表を務めています。

 当時、大学生で京都に住んでいた松山さんはこの震災で初めて災害ボランティアを経験することになりました。

災害対応NPO「MFP」松山文紀代表:
「ボランティア募集がキャンパスの中にチラシが張ってあって、ちょっと行ってみようかなって、その日には間に合わなかったですが。とにかく行ってみようかなと思って行ったのが2月22日。1カ月後ですね。行ったばっかりのころは、やっぱりまだ寒い時期だったので、夜通したき火をたいて暖をとっている人たちもいましたし、たき火をしている匂いなどは各地であった覚えがあります。あと土ぼこりがけっこう多かったですね。当然倒壊家屋が多かったということもありましたし」

 松山さんはこの震災をきっかけに、30年にわたって被災地で支援活動を行ってきました。

 去年発生した能登半島地震でも発災から5日後に現地に入り支援。

 現地では避難所へ物資を届けたり、倒壊した家屋から貴重品を取り出すなど活動をしてきました。

 阪神淡路大震災から30年経っても支援の課題があるといいます。

災害対応NPO「MFP」松山文紀代表:
「30年前の方が物資供給が良かったりしたんですよね。食事の面でもちゃんと供給されてたものが、今回能登半島地震ではお弁当すらも供給が何カ月も後だったんですよね。しかも1日1食。行政の支援の限界というのはあまり変わっていないし。もしかすると能力的に落ちているかもしれないですね」

 高齢化や職員の減少などによって行政の支援には限界があるといいます。

 そんな中、能登半島地震では避難所運営に差を感じたそうです。

災害対応NPO
「MFP」松山文紀代表
「炊事場があるような地域の公民館はその日から炊き出しやっているんですよ。地域の公民館みたいな避難所に関しては、その地域の人しかいないので、逆にそこって結束していたり、配慮がそれぞれあったりというのが感じられたところでした。」

「一方で大きな避難所に関しては、なかなかそういう結束というのは難しい状況にありましたね。なので、誰かが支援に来てくれないと炊き出しというか、温かいものすら食べられないという状況ではありました」

 阪神淡路大震災から30年。

 これまでの震災から活かせる教訓は。

災害対応NPO「MFP」松山文紀代表
「人のつながりは災害があってからじゃ繋がれないということ。色んなところでやっぱり人と人が人を助けている。」

「本当にそこの地域の人たちで、あそこの誰それさんぐらいの同じ町内の人だよね、ぐらいのところが分かっていかないと、自分がもし生き埋めになった時に助けてもらえないだろうなと思うし。自分が助ける側になろうと思っても、その地域のこと知らないと、助けようにも助けられないんじゃないかなと思う訳ですよね」

「それを意識して少し面倒なことでもその地域で暮らしているのであれば、近所づきあい少しめんどくさくてもやっておくべきじゃないかなと思います」

松山文紀さん提供
松山文紀さん提供