被爆2世に決断させたのは娘が発した衝撃の一言「広島と静岡でなぜ温度差があるの?」…「私の使命は後世に語り継ぐこと」
広島で生まれ育った被爆2世
被爆の悲惨さを後世に語り継ぐ「原爆と人間」展。大やけどを負った父親。被爆翌日、駆けつけた子どもはそれが父親と分からなかったといいます。このほか、およそ100点の絵や写真が原爆投下後の様子を伝えています。
広島で生まれ育った被爆2世の松本潤郎さん。8年前から県内で原爆の悲惨さを伝える活動を行っています。8月6日、6日広島市で開かれた平和祈念式典にも、およそ30年ぶりに参加しました。
静岡県原水爆被害者の会副会長 松本潤郎さん:「広島の被ばく2世として、平和を伝えていかなければいけない」
活動のきっかけは娘の一言
19日に静岡市で開催された核兵器廃絶がテーマの学習会。およそ50人の参加者を前に講演をしました。
松本潤郎さん:「原子爆弾1発で19万人、20万人が亡くなるわけですから。そんなことあってはいけない。戦争はやってはいけないですよ、絶対に」
松本さんがこの活動を始めるきっかけとなったのは、娘のある一言です。
1994年、松本さんは38歳の時、仕事の都合で広島から静岡市に転勤してきました。静岡で迎えた初めての夏。当時小学6年生だった娘の真依子さんが学校から帰ってきて、疑問を口にしました。
静岡県原水爆被害者の会副会長 松本潤郎さん:「お父さん、お父さん、学校の先生が8月6日、9日を知らないんだけどなぜ? なぜ、温度差があるの?って」
一部の学校の友人や大人が「原爆の日」を知らなかったといいます。広島県民とのギャップを感じるあまりに衝撃的な出来事でした。
原爆投下の一報を受け広島に戻った父「街は一面焼け野原に」
1945年8月、海軍の予科練に入隊していた松本さんの父、耕三さんは愛媛県にいるときに故郷・広島に新型爆弾が投下されたとの一報を受けました。急いで戻った広島の街は一面焼け野原に。変わり果てた光景に衝撃を受けたと話していたといいます。
松本さんは父、耕三さんが8年前に他界したとき、娘の言葉が再び脳裏に浮かんだと言います。
静岡県原水爆被害者の会副会長 松本潤郎さん:「改めて私は世間に恩返しすることはないだろうか考えたら、広島の被爆2世としてバトンを繋いでいかなければいけないと思った」
後世に語り継ぐのは「私に与えられた使命」
松本さんは自分の体験は『生』ではないが、唯一の戦争被爆国の記憶を後世に語り継ぐのは、「私に静岡で与えられた使命」だと考えています。
松本潤郎さん:「(被爆)1世の方の言葉とは違うと思うが、静岡にきて広島で体感した学校で授業で受けた言葉を、少しでも自分なりにかみ砕いて説明したいと思っている」
語り部は年々減少しています。戦争を知らない世代が、その悲惨さを語り継いでいくことが大切だと語ります。
松本潤郎さん:「(被爆)一世の人の生の声が聞けなくなってくるので、(被爆)2世として、その人の言葉をよく聞きながら、私なりにかみ砕いて今の方に説明したいと思う」
静岡県庁で開かれている「原爆と人間展」は25日までです。