78年前静岡空襲の夜入院患者を避難させるために命を落とした8人の若い看護師たち 彼女たちの思いを語り継ぐ 静岡市立静岡病院
1945年、今から78年前の6月20日。アメリカ軍の空襲によっておよそ2000人の静岡市民が命を奪われました。戦火の中、命を顧みず患者の避難誘導にあたった看護師たちがいました。
静岡市葵区の静岡市立静岡病院。
敷地内にある慰霊碑に水と花が供えられています。
手を合わせるのは今年看護部長に就任した青山治子(59)さんです。
78年前、若い看護師たちが命を落としました。
1945年6月20日未明
1945年6月20日未明。
アメリカ軍の爆撃機B29、137機が静岡市街地に
10万発以上の焼夷弾を落とし一夜にしておよそ2000人の静岡市民の命が奪われました。
「道中の焼死者を夢中で避けて病院にたどり着くと、病院は全焼し、炎のみあちこちに上がり」
静岡病院では初代看護婦長、松林はなさんが静岡空襲の話を後輩の看護師に残し、その戦争の記憶が若い看護師や
看護学生たちへと引き継がれています。
8人の看護師が
当時、病院にいた40人の看護師はおよそ100人の患者の避難誘導にあたりました。
目と鼻の先に焼夷弾が落ちていく中、壮絶な避難誘導でした。
「院内のあちらこちらに炎が上がりはじめ、玄関にも見えはじめ、職員避難命令が出たが、もう各自で出口を見つける他ない」
「夕方になっても姿が見えない人達がある。胸騒ぎが強まるばかりで眠れない」
静岡市立静岡病院 青山治子看護部長(59):
「避難命令が出たときには本当に火の海という状態で、自分たちが避難をする道を見つけられなかったと伺っています」
患者の避難を優先し、職員の避難は後になったのです。
当時、病院にいた100人の患者の内、2人は亡くなりましたが、ほとんどは避難できたとされています。
一方、8人の看護師は命を落としました。
病院が逃げたら市民を守れない
静岡市立静岡病院 青山治子看護部長(59):
「(看護師)8人の姿がないっていうことに気がついて病院の付近を捜索に行ったっていうことを伺っています」
静岡市立静岡病院 青山治子看護部長(59):
「自分も顧みないで、やはり患者さんのところに力を注ぐというところは、本当に素晴らしいなと、素晴らしい先輩たちだなと思っております」
殉職した8人の看護師は7人が10代。
一番若かったのは15歳の看護学生でした。
当時、静岡病院は看護学生のあこがれの存在。
就職倍率は10倍だったといいます。
殉職した8人の看護師は病院の近くの寺や水がなくなった防火用水の中で見つかったということです。
静岡市立静岡病院 青山治子看護部長(59)
「本当に若い人たちが色んな夢を見ていたと思うんです。
やっぱり逃げない。病院が逃げたら、市民のことを守れないんだっていう、素晴らしい先人たちの思いを、私達が風化させないで、残してそして受け継いで行かないといけないなと思っています」