東日本大震災から15年 原発事故で破壊されたふるさと福島県浪江町 戻ることはないと思ったが時間の経過が気持ちを変えた…「最後はふるさとで」

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東日本大震災と福島第一原発事故から11日で15年です。あの日、ふるさとを離れ静岡県内に避難した人がいます。変わり果てたふるさとに、それでも帰りたい。静岡から思いをはせるその理由とは…。

「静岡県の県立高校の問題にも必ず確率が出るので、それも入れておきました」

 子どもたちに教えることが、福島にいた頃からの日常でした。

 静岡県富士市で学習塾を経営する、堀川文夫さん、71歳。

 今は中学生8人に教えています。

 教室の一角に並ぶのは、堀川さんが集めた本。

 多くが原発関連のものです。

堀川文夫さん
「原発ではない電気で日本もやっていくべきと、前々から思っていた時にあの事故が起こったので、そら見たことかって」

 堀川さんが暮らしていたのは、福島県浪江町。

 2011年3月11日。

 その日のうちに、夫婦でふるさとを離れました。

堀川貴子さん
「(文夫さんが)原発がおかしくなっているから逃げるって言った時も、もう何言ってるんだか…ぐらいにしか思っていないわけですよ、私も。だけど、次々と(原発が)爆発した映像とかを見た時に、文夫さんが言っていたのはこういうことだったんだって。」

堀川貴子さん
「寒さで震えているお母さんと桃は抱き合っていました。自衛隊やパトカーや救急車がずーっと走っていました。外は雪がしんしんと降っていました」

 堀川さん夫婦は、あの日の出来事を自作の絵本で伝えています。

 3.11までちょうど1カ月となったこの日、講演会にゲストとして参加しました。

 タイトルは、「手紙~お母さんへ~」。

 飼っていた愛犬「桃」の目線で、東日本大震災を描いています。

堀川文夫さん
「元の街並みはほぼ無いです。駅を降りてもどこがどこか分からないような状態なんです。」

堀川貴子さん
堀川貴子さん

 生まれ育った、ふるさとは今…。

「あそこに塾があった」

 この町で学習塾を開いたのは、34歳のときでした。

 それから、30年以上。

 教え子たちからの寄せ書きは、文夫さんの宝物です。

 福島第一原発からおよそ7キロ。

 ここは、かつての自宅があった場所。

 6年前に解体し、今は更地になっています。

堀川文夫さん
「解体は、私見ていないんです。見るに堪えなかった」

 町内のおよそ8割が「帰還困難区域」に指定されている、浪江町。

 現在暮らしているのは、およそ2400人。

 震災前の1割です。

堀川文夫さん 
「やっぱり原発事故というのは罪深いなとつくづく思います。何万人もの人たちが人生を狂わされてしまった。やっぱりそれは、あるべきエネルギーじゃない。それだけは私は言いたいですよね。」

 戻ることはないと思っていたふるさとですが、時間の経過が、気持ちを変えました。

福島県浪江町
福島県浪江町

堀川貴子さん
「庭木の伐採をして、いよいよこうなった時にもう帰れないねって、もう静岡で最後まで頑張ろうという気持ちが起きるかなって思ったら、(文夫さんは)真逆だったんですよ。ますます帰りたくなった。断ち切れなくなったんだよね」

 富士市に避難した、翌年に開いた学習塾。

 今の生徒が卒業する来年春に閉校し、浪江町に戻ることを決めました。

堀川文夫さん
「徐々に徐々にふるさとへの思いが強くなってくる。70を過ぎて、最後まで私はここでいいのかなって思い始めた。何かが違うというか、呼ばれちゃうんだよね、向こうに」

「最後は、ふるさとで」。

 原発事故で全国に散った友人たちが避難先で立て続けに亡くなったことも、文夫さんを突き動かしました。

堀川貴子さん
「私は帰らないと、とりあえず決めているから。もうこっちの方が住みなじんできているわけだから」

 東日本大震災から15年。

 貴子さんにとって結婚を機に暮らし始めた浪江町よりも、富士市での生活のほうが長くなりました。

堀川文夫さん
「あれがなかったら、今ここにいないんだよ。あれがなかったら、今何していたか。あれがなかったらって考えたら、とんでもないことだよね。3.11は特別じゃないのよ、私たちは。3.11が近づくととかじゃないの。事あるごとに思い出すの」

堀川文夫さん
堀川文夫さん