ウクライナから戦禍逃れ日本のサーカスへ　爆撃音に怯える幼い長男に「花火よ」

　戦禍のウクライナから避難してきた女性は今、直径約15メートルの円形の舞台上でスポットライトを浴びている。現在、静岡県静岡市清水区で開催中（～6月22日）のポップサーカス静岡公演でリングマスターを務めているイリナ（42）だ。異国の地で多くの人を楽しませている彼女は言う。「サーカスは私のすべて」－。 （難波亮太）

　4月26日に初日を迎えた静岡公演。幕が上がる15分前に舞台裏に姿を見せたイリナは、「エキサイティング！」とカメラに向かって小さく手を振った。赤のスパンコールが輝く衣装でリングに立つとオーディエンスを盛り上げた。
　1996年に旗揚げしたポップサーカスは、これまで日本国内170都市以上で公演し1500万人以上を魅了してきた。公演毎に国内外のトップパフォーマーと契約していて、今回の静岡公演には世界11カ国約40人が出演。イリナもその1人。夫で空中ブランコチームのリーダー、チャト（51）＝チリ出身＝、長男のケイラン（5）とともに、日本各地を巡っている。
　イリナが務めるリングマスターはいわば座長。オープニングアクトのダンスに始まり、MCやイリュージョン…。果たす役割は多く、ショーの成否の鍵を握っていると言っても過言ではない存在だ。

　5歳のころから大会に出るなど、故郷ウクライナでダンスに明け暮れていたイリナ。大人になり銀行関係の仕事をしていたがダンサーの夢は捨てきれず、2016年に中国で公演をしていたサーカス団と契約。「踊るのは楽しい。拍手とかテンションとかが本当に好き」（イリナ）と、改めて気付けた。
　夫のチャトとはその中国で出会い2019年に結婚した。そのタイミングで新型コロナのパンデミックによって、ほとんどのショービジネスが休演を余儀なくされた。子供を授かったこともあり、イリナはチャトとともにウクライナに戻った。
　ケイランも生まれ家族3人、両親や友人に囲まれての暮らし。そんな幸せな毎日は2022年2月、ロシアによる侵攻で一変した。イリナの故郷はロシアと国境を接するハルキウ。「毎日爆音が響き、至る所で人が死んだ。毎日子どもが死んでいったのが一番つらかった。学校や病院、幼稚園、すべてが破壊された」とイリナは表情を曇らせる。
　

　夜も鳴り止まない爆撃音を、当時2歳の我が子が怖がらないように「花火よ」とごまかした。「ケイランを守りたい」。その一心だった。
　2022年12月、何とか日本に避難することができた。チャトの兄、ルイスがポップサーカスで長年クラウンを演じているという縁などもあり、ポップサーカスの一員になった。

　サーカスは巡業が終われば、またすぐに別の場所に移動する。その頻度は2～３カ月おき。一般の人からすれば定住する場所がないのは不便なように感じるかもしれないが、イリナは「家族と毎日一緒に過ごせるしケイランも安全。契約があればそこに行くし、それが仕事。オールマイライフ」と笑う。
　ショーが終われば家族と買い物をしたり、公園に行ったり―。今は何気ない日々を過ごしている。しかし時々、戦争がもたらした負の側面を思い出す時があるという。
　「ケイランは小さかったから戦争のことはあまり覚えていないと思う。でも、お店で銃を見たケイランが『これでウクライナを守る』って。誇りに思うけど、実際にそうなったらとても悲しい」。
　まばゆいリングの上ではそんな戦争の影をみじんも感じさせないイリナ。インタビューの時に着ていたTシャツにはハート形のウクライナ国旗がデザインされていて、そこには「I♡Ukraine」の文字。
　イリナに聞いた。「あなたの夢は何ですか？」と。
　「朝起きて戦争が終わったというニュースを見ることよ」
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（敬称略）

　声をかけるとすぐにイリナの背中に回って顔を隠す恥ずかしがり屋のケイラン。インタビューの途中、いつの間にかイリナの膝の上で静かに寝息を立てていた。母親の膝枕で安心して眠る―。そんな安らかな時間がウクライナに訪れてほしい。