「私の戦争を終わらせてください」浜松大空襲で全身にやけどを負い戦後80年間後遺症に苦しみながら国からなんの補償も得られない男性の心の叫び

浜松大空襲から18日で80年を迎えます。この空襲で全身にやけどを負い、国に補償を求めて活動してきた男性の思いを取材しました。
浜松市内のホテルで開かれた慰霊式には戦災遺族など70人が参列し、空襲の犠牲者に花を捧げました。
1945年6月18日の浜松大空襲ではアメリカ軍のB29から6万5千発の焼夷弾が投下され、市内で1157人の死者が出ました。
この浜松大空襲に遭遇し九死に一生を得た男性がいました。
木津正男さん、98歳です。
80年前の6月18日浜松大空襲で大やけどを負いました。
木津正男さん
「(街に残ってるのは)女子どもと年寄りばっかだもんね当時は。そういう人を逃がして帰ってきて家に入った時ナパーム弾(焼夷弾)でやられたもんでね」
木津さんは当時18歳。
技師として軍の仕事を請け負っていたため、招集を免除されていました。
木津正男さん
「友達は全部兵隊行っちゃったの。(1945年)1月にもう2月まで待っても召集令状来んじゃんね。俺だけなんで(招集が無い)って兵事課行ったら兵事課で元帳調べて、これでこの大きい碇のマークのハンコを押してあったの。『木津さん軍の仕事してますね』と。これは戦争行きませんよ。兵隊と一緒ですから行かれちゃ困るで。みんな兵隊行くの嫌だったって言うけど俺は行きたかったんだ。行けばこんな体になっていなかったもん」
国からは何の救済措置もなく
およそ100機のB29が街を襲ったあの夜、自宅で寝ていた木津さんは数少ない若者として住民の避難を誘導。
そして家に帰ったところで焼夷弾に襲われたのです。
全身に大やけどを負った木津さんは、およそ5カ月の間意識を失い生死をさまよいました。
体の中には空襲で受けた爆弾の破片が今も残り数年に一度強い痛みに襲われます。
やけどをした右手は自由に動かせず、後遺症に苦しみながら戦後を生きてきました。
しかし、国からは何の救済措置もありませんでした。
国は旧軍人やその遺族に総額60兆円にも上る補償をしています。
一方で、木津さんのように戦争で被害を受けた民間人は一貫して救済の対象外としているのです。

被害者団体を結成
空襲で障害を負ったり、孤児になったりした人たちは、1971年に被害者団体を結成。
国会議員らへの陳情や街頭活動を通じて国に補償を求めてきました。
木津正男さん
「厚生省とか方々へよく陳情に)行ったですよ。電話もしなしに行っちゃうもんでね。大体玄関払いだね。それでもちろん大臣とか一切会えないけどね。『こういう問題は前もって連絡して下さい』とか言われるのがオチで。それで向こうの逃げ口上。僕らもね、やっぱし普通の衆じゃないもんでねえ。いついつっていう日程が組めれんわけじゃん。体調の関係があって」
上げ続けた声に国は耳を傾けないまま、80年が経ちました。

「私の戦争を終わらせてください」
木津さんは年齢と空襲の後遺症で活動に加われませんが、
せめて思いを届けたいと20年ほどまえから体験をつづった手記を天皇陛下や総理大臣に送ってきました。
ここ数年、表題は変わっていません。
「私の戦争を終わらせてください」
大やけどをした右手は年々不自由さが増し、文字を縦に書くこともできなくなりました。
それでも痛みに耐え、原稿用紙に横書きで記した手紙を今年も送りました。
木津正男さん
「金をくれじゃなくて、大変でしたねの一言が欲しくて。総理でもどこでもいいで、誰かがそういう手紙を送るの待ってたけどついに来ないけどね」
Q「そういう返事が来た時初めて木津さんの戦争が」
「それで終戦で」
超党派の国会議員連盟は空襲で障害を負った人への一時金支給などを盛り込んだ救済法案を作成しましたが、国会提出のめどは立っていません。
戦後、国に放置され続けた空襲被害者たちに終戦」は訪れるのか。
残された時間はそう多くはありません。
