「戦後80年~体験をつなぐ~」①戦争体験者の声を集め記録として残す~後編
シリーズ戦後80年~体験をつなぐ~。14日は戦争体験者の証言を残す活動の第2夜。静岡空襲を体験した100歳の女性の思いに迫りました。
静岡平和資料センターの「証言映像部」で戦争体験の声を残す活動をする浅見幸也さんと奥脇卓也さん。これまでセンターでは100人以上の戦争体験者の話を収録してきました。
●静岡平和資料センター顧問 浅見幸也さん(88):
「いよいよ体験者の声を聞くのが難しくなると、そうなる前に証言を残していこうという声が高まってきて」
戦後80年を目前に実体験の話を聞ける人が少なくなる中、1年8カ月ぶりに体験者のインタビューが実現しました。
応じてくれたのは、静岡市の老人ホームで生活する澤井静枝さん、100歳です。
静岡平和資料センター顧問 浅見幸也さん(88):
「澤井さんの貴重な体験をきょうは若い人たちに残していただいて空襲の体験を知ってもらうと」
澤井さんが静岡高等女学校に通っていたころは、戦禍の真っただ中。当時の教師が、古代ローマの母親は、息子を戦場に送ることを誇りに思っていたという話をし、こう訴えたといいます。
●澤井静枝さん(100歳):
「お前たちもいずれは母親になるんだからそういうふうにならなければいけないって」「その時私は我が子に死ねっていう親があるかなって」「この先生は本気でこれをおっしゃっているのかなって」「それとも上を向いて言わざるを得ないからこういう話をなさるのかなって。とするとかわいそうな先生だなって思ったのを覚えている」
その後、女学校を卒業し銀行に勤めていた澤井さん。戦況が厳しくなると、静岡市の谷津山に防空壕を掘るために動員されたといいます。朝から晩まで休みなく兵隊らが掘った土を運び続けました。そんなある日のことでした。
●澤井静枝さん(100歳):
「うちに帰りついて 泥でズボンが重くてその重さを今でも思い出す」「もう私はきょうはくたびれたからまじめに働いた空襲があっても死んでもいいから起こさないでくれって言って」
浅見さん):「それぐらい疲れておられたんですね」

その夜にあったのが、静岡空襲です。1945年6月20日未明からおよそ1万発の焼夷弾が投下され、静岡市の街は火の海に包まれました。
●澤井静枝さん(100歳):
「床についたかつかないかの時、周りが全部焼けてきて消すなんてことはできなから 焼けてない所ににげるしかないと逃げた」「家族で全員で逃げまして」
二番町の自宅から火の勢いが収まってきた駅南方面へ。線路を越えて逃げる途中で、今も忘れることができないことがあったといいます。
●澤井静枝さん(100歳):
「人があとからあとからきて立ち止まるも何もできない押されて」「何とか足がふにゃ柔らかいなっと思って見たら下におばあさんの顔が見えたんですけど」「止まって起こしてあげるわけにいかない」「人があとからあとからきて自分が立ち止まったらそこで倒されてしまう」「そのまま飛び越えて踏みつけて逃げたんですけど」「どうなったのか気になっていた」
浅見さん):「大変な体験をされたんですね」
澤井さん):「だから・・・本当に・・戦争ってこういうもんだなって 人の命より自分の命が大事なんだなって」
浅見さん):「若い人たちに澤井さんから何か伝えたいことは?」
澤井さん):自分をしっかり持つっていうのかな」
国のために戦うことが当然と言われ続けて翻弄され、それでも懸命に生き抜いてきた澤井さんからのメッセージです。
澤井さん):「なんで戦争ってこうして始まるのかなって」「人間て自分の欲しかないのかなって」「結局戦争って人殺しでしかない」
●静岡平和資料センター顧問 浅見幸也さん(88):
「非常に記憶が鮮明に残っていてその時その時の思いは脳裏に残っているなと」「人が人を殺す戦争はいやだとやっちゃいけないという思いがひしひしと伝わってきました」
●静岡平和資料センター証言映像部 奥脇卓也さん(41):
「澤井さんが最後の言葉で一人一人が自分の言葉で考えることが重要だと言っていたが、僕はそれに完全に同意して勇気づけられた」
体験者が語る戦争の悲惨さ、つらさ、愚かさ。この声を戦争を知らない世代にどうつないでいくのか。戦後80年、体験者の生の声は徐々に聞けなくなっていきます。
