甲子園で3回優勝…決め球は90cm落ちるドロップ 24歳の若き天才の命を奪った戦争 松井栄造の弟妹に聞く思い出
89年前、夏の甲子園を沸かせた伝説のサウスポー、松井栄造です。1918年、浜松市に生まれた松井栄造は、元城小学校ではエースとして日本一に。全国の強豪校から誘いを受ける中、岐阜商業に進学。甲子園で投手として春2回の優勝を果たすと、1936年、夏の甲子園で初出場、初優勝を達成。キャプテンとして投打に活躍しました。左腕から繰り出す決め球のドロップは、三尺、およそ90㎝落ちたと言われています。

実のきょうだいに話を聞くことができました。弟の昇さんは94歳、妹の多美子さんは91歳。昇さんは、兄栄造と12歳、年が離れていて、兄のユニフォーム姿は記憶にないといいます。
石田和外アナウンサー「松井栄造さんの思い出は?」
弟、清水昇さん(94)「一緒に生活してたのが少ない。あれ俺の兄貴かなって、信じられない」

甲子園で大活躍した栄造は、早稲田大学に進学。肩を痛め、野手に転向すると俊足巧打の外野手として、6大学リーグで神宮を沸かせました。大学時代には東アジアの国際大会で日本代表としてプレーした栄造。端正なマスクで、相当な人気ぶりだったといいます。

15歳離れた多美子さんは、兄が大学時代にハワイ遠征に行った時のことをよく覚えています。
妹、森本多美子さん(91):「(野球で)ハワイへ遠征で行ったときに洋服を買ってきてくれて、それを着て撮った写真がありました」
石田「昇さん、栄造さんはカッコよかったですか?」
清水昇さん「一言で言って格好良かったね」
森本多美子さん「男前だった」
清水昇さん「そりゃそうだ」笑い
森本多美子さん「皆さんに好かれていて、性格も良かったみたい。人気者だった。今で言ったらスターでしょ。大谷翔平選手のようですかってそうだよね」
清水昇さん「そうだ」
森本多美子さん「だって銀座の街歩いたら、後ろからついてくる女の人がいたって」

しかし徐々に戦争が影を落とします。
1941年、太平洋戦争が始まると、社会人野球に進んだ松井にも召集令状が届きます。陸軍の幹部候補生として中国戦線へ。出征の時、岐阜の恩師に送った手紙が静岡県護国神社に残されています。

「勇敢に戦って戦い抜いて笑って死んでいった雄々しい姿を想像してください」
「では往って参ります、と」
石田アナ「この言葉は重いですね」
藤本大祢宜「そうですね 何か心に秘めたものはあったんでしょうけど。気丈に書いておられると思います。浜松から岐阜に行っているので、親元を離れてということだと思うのでいろいろお世話になったんだと思う」

覚悟を決めた栄造は、中国へ渡り、山岳地帯での激戦に参加。そして1943年5月28日、小隊長として「突っ込め」と号令をかけ、機関銃を構える敵陣に突撃しました。

石田アナ「護国神社には松井栄造の遺品が展示されています。戦地でかぶっていたヘルメット。ここには、弾丸が貫通した跡が残されています」

敵陣に突入した時に、一発の銃弾が松井栄造の頭部を貫通。24歳の生涯を閉じました。その痕が80年以上たった今もはっきりと残されています。

清水昇さん:「戦争がなければね。戦争に入ってからはもう兄貴とは生活できないな、寂しいね」
栄造は生まれ故郷の浜松に眠っています。
昇さんは、足が悪く、お墓参りは難しくなりましたが、多美子さんが時折訪れています。
石田アナ「手を合わせると栄造さんのどんな顔が浮かんできますか?」
森本多美子さん「多美子元気かって。ニコって笑った笑顔がいい人だったから。私にとっては立派な兄だと、うれしく思っている」

松井栄造が亡くなって82年。この夏も球児たちが甲子園で白球を追いかけています。栄造の母校、県立岐阜商業も、栄造たちが初出場初優勝を果たしてから31回目、夏の夢舞台で躍動。16年ぶりの勝利をつかみました。
もし戦争がなかったら。
石田アナ「戦争がなかったら松井栄造さんはどんな人生だった?」
森本多美子さん「おそらく野球男でいった職業野球をやるか、それともコーチとして頑張って多くの選手を生み出す。やっぱりあの人から野球を取ることはできない」
松井栄造が愛した野球。そのしなやかなピッチングフォームは、今も野球の素晴らしさ、そして平和の尊さを訴えかけているようです。
