「戦後80年体験をつなぐ」50年以上1人の医師が主催し続けてきた静岡空襲の日米合同慰霊祭 戦争の記憶が刻まれたアメリカ兵の水筒そのシンボルを引き継ぐ者は…

シリーズ「戦後80年体験をつなぐ」。今回は、50年以上静岡空襲の日米合同慰霊祭を開催してきた男性を取材しました。
男性は91歳、今大きな問題に直面しています。
石田和外アナウンサー:
「この日米合同慰霊祭は、車で会場に来ることはできません。参列者はおよそ30分山道を登って、この賎機山の会場にやってきます」
21日、静岡市葵区の賤機山山頂で行われた日米合同慰霊祭。
80年前の静岡空襲で犠牲になったおよそ2000人の市民と爆撃中に墜落したアメリカ軍B29の搭乗員23人を追悼します。
この慰霊祭を主催する静岡市の医師、菅野寛也さん91歳。
これまで50年近く自費で慰霊祭を開催してきました。
菅野さんも7月には92歳。
今年は「ある覚悟」をもって臨んでいました。
菅野寛也さん:
「山の上でしょ あそこ登るの大変ですよね。いつまでも主催者という形でやっていくとみんながついてくてくれるかどうかと。」
石田和外アナウンサー:
「主催者としては最後にしたいという思い?」
菅野寛也さん:
「できればそうしたい」
1945年6月20日の静岡空襲。
当時11歳だった菅野さんはB29の墜落現場を目撃。
死亡したアメリカ兵を見た時の思いを今も覚えています。
菅野寛也さん:
「一瞬ね。一瞬彼らも犠牲者だと思った。周りは殺気立っていた。そんなことは思っても口に出しちゃ言えなかった。」

ある出会いがこの思いを呼び起こします。
空襲当時市議会議員だった伊藤福松さん。
その後僧侶になり、私費を投じてアメリカ兵23人の慰霊碑を賤機山に建立したのです。
1970年ごろ、菅野さんは賤機山でこの慰霊碑を見つけ衝撃を受けました。
菅野寛也さん:
「敵兵の慰霊碑まで建てる人がいるというのはすごい人がいるもんだと。それで目が覚めた」
「死んでしまえば敵も味方も関係ない」
伊藤さんの思いに感銘を受け、1972年に伊藤さんとともに日米合同の慰霊祭を開催。
その数年後伊藤さんが亡くなり、慰霊祭を引き継いで開催してきました。
その原動力となったのが、伊藤さんに託されたB29搭乗員が持っていた遺品の水筒です。
菅野寛也さん:
「これを握りしめた時には断末魔の苦しみの中で。これが残っているから私も慰霊祭を続けてこられた。慰霊の灯は消したくない」

そして迎えた53回目の慰霊祭。
「主催者としては、最後になるかもしれない」
菅野さんは、賤機山の山頂を目指し、登り始めます。
去年は、1時間ほどで登れたという菅野さん。
ゆっくりゆっくり休みながら山頂を目指します。
菅野寛也さん:(水を飲む)
「うまい」
石田和外アナウンサー:
「水分がしみますか?」
菅野寛也さん:
「ここ(足)が弱くなったね」
およそ1時間20分かけて山頂にたどり着きました。
石田アナウンサー:
「登り切りましたね いかがでした?」
菅野寛也さん:
「さすがに歳だね」
石田アナウンサー:「一年前と比べてどうですか?」
菅野寛也さん:
「やっぱ大変です」

読経
慰霊祭には、米軍横田基地からおよそ60人、このほか自衛隊関係者、静岡市の難波市長らおよそ200人が集まりました。
鎮魂ラッパ
菅野さんが慰霊祭で最もこだわりを見せている「献酒」遺品の水筒にバーボンを入れて、犠牲者をしのびます。
米軍横田基地司令官 リチャード マックエルハニー大佐:
「地域社会、友人、同盟国など日米両国において平和と自由を育むこの機会を得られたのは菅野先生の尽力のおかげです」
53回目の慰霊祭は、無事終了。

実は菅野さんは、すでに難波市長に来年以降、この慰霊祭に協力して欲しいとお願いをしていました。
難波喬司市長:
「どういう形がいいのかというのは菅野先生によくお伺いして菅野先生の意向に従って続けていけるようにしたい」
石田アナウンサー:「全面的に協力する体制は整っていいると」
難波喬司市長:
「これを協力しないというのはありませんので」
菅野寛也さん:
「よくもこれだけ集まってくれたかなと。正直驚いた。戦争と平和に対して関心を持っている人が大勢まだいらっしゃるんだなと。そういうものを大事にしないといけない」
80年前の戦争の記憶が刻まれたアメリカ兵の水筒。
これをシンボルに山の頂で行われる慰霊祭は、形を変えながら未来へと受け継がれようとしています。
