「戦後80年~体験をつなぐ~」静岡空襲でアメリカ軍のB29爆撃機の墜落現場を目撃した男性は…
シリーズお送りしている戦後80年「体験をつなぐ」今回は80年前の静岡空襲で、アメリカ軍のB29爆撃機の墜落現場を目撃した男性の平和への思いです。
紙芝居実演
「敵機が落ちたぞー、敵機が落ちたぞーという声にみんな堀から外へ飛び出しました」
朝比奈正典さん87歳。
静岡市で小学校の教師をしていた50歳のころ、戦時中の記憶を絵に描き、紙芝居にして伝えてきました。
静岡空襲。1945年6月20日未明、アメリカのB29爆撃機123機が飛来し、静岡市に焼夷弾を投下。
街は焼き尽くされ、2000人以上の命が奪われました。
この時B29の2機が空中で衝突、アメリカ兵23人が死亡しています。

B29の墜落現場へ
朝比奈さんが住んでいた静岡市の田町にもB29の胴体部分が落ちてきました。
当時7歳、小学2年生だった朝比奈さんは、墜落現場で死亡した2人のアメリカ兵を目撃しました。
紙芝居実演
「苦しみながら死んだアメリカ兵にこの野郎と罵声を浴びせながら頭上に構えた大きな石を投げつける人が大勢いました」
「生身に石が当たり鈍く跳ね返る音は今でも耳の奥に残っています」
石田和外アナウンサー
「このB29墜落という紙芝居はどうして作ろうと思った?」
朝比奈正典さん
「元は子どもに見せる(ため)話だけではなく具体的に見せないとということが一番大きかった。今考えると一番印象が深かった現場で現実に目の前にしてそれが絵になった」
朝比奈正典さん
「この辺りは全然様変わりです」
石田和外アナウンサー
「変わっていますか」
朝比奈正典さん
「跡形もないですね」

墜落現場の光景は
当時防空壕で家族8人で身を寄せ合い、一夜をしのいだ朝比奈さん。
あれから80年がたった今も、墜落現場の光景をはっきりと覚えています。
朝比奈正典さん
「これが当時の堤防。飛行機がこっちから来てドカンと堤防の傾斜と同じくらいのところに落ちた」
「こんな大きい石を拾ってきてぶつけたり、その音が今でも残っている不気味な音で」
石田和外アナウンサー
「当時小学校2年生でそういう光景を見てどんな思いだったか覚えてますか?」
朝比奈正典さん
「何にもかわいそうとか気持ち悪いとか何もなかった。それが怖いということ戦争はまともな神経をなくしてしまう」

なぜ語ろうと思ったか
朝比奈さんがこの経験を40年以上経ってから語ろうと思ったのはある理由からでした。
朝比奈正典さん
「誰も言わないここに飛行機が落ちたことを。かなり待っていた。誰かが言うだろうと思っていたが、誰も言わない。出さない。(戦争体験の)原稿になってこない。それじゃあ俺がやるしかないかなって」
朝比奈さんは、小学校や戦争体験を語る会などで30年以上に渡って静岡空襲の記憶を紙芝居で伝えてきました。
戦後80年を前に、戦争体験者が少なくなる中、自らの体験を語る意義を強く感じるようになったといいます。
朝比奈正典さん
「こうやって目の前で見たことを伝えられるのはある程度記憶のしっかりしてきた年代。やっぱり6歳、7歳。私は自分が最後だとそう思い決めて残さなきゃとこういう絵になったと思う」

死んでしまえば敵も味方も
朝比奈さんの紙芝居は、こう結んでいます。
紙芝居実演
「敵兵とはいえ死んでしまった人を葬るのは人の道。その後、賤機山山頂に静岡空襲戦没者慰霊碑と並んでB29搭乗員慰霊碑が建てられ、今も祭られているのです」
「死んでしまえば、敵も味方もない」
1970年、一人の僧侶により静岡市の賤機山山頂にB29に乗って犠牲になったアメリカ兵の慰霊碑が建立されました。
以来半世紀をこえて静岡空襲があった6月に日米合同の慰霊祭が開催されています。
朝比奈正典さん
「戦争は人を変えてしまう 狂気が一番怖い。戦争がなければみんな柔らかい。優しい人間で。(石を投げる)こういう人間になっちゃう。この人だって優しい人だったはずなのに。裏を返せば家を焼かれてしまっただろうし。兄弟死んでいるかもしれないし」

戦争が絶えない世界は
戦後80年、朝比奈さんは、ウクライナやイスラエルなど世界各地では戦争が絶えない、今の状況を憂います。
朝比奈正典さん
「いつ危ない目に会うかという時代が不安定な時代に入ってきている。早く平和になってもらいたい 平和運動に関わっていってほしい。関われなかったらせめて平和のほうへ。考えを持っていないと自分だけというのはやめてもらいたい」
