U-23侍ジャパン・ヤマハ相羽寛太「亡き友の分まで」「恩返しがしたい」…誓ったプロ野球入り 26日運命のドラフト会議
「優の分までという思いは常にありました」
プロ野球ドラフト会議が26日、都内のホテルで行われる。野球人にとって運命の一日、静岡県森町出身で静岡高校から社会人ヤマハに進み3年目の相羽寛太内野手(21)も指名を待つ一人。「ドキドキと不安、半分半分です。(指名が)かかることを想像して過ごしています」と語った相羽。
右投げ右打ちのショートで、特に守備は高校時代からスカウト陣の注目を集めていた。去年はU-23侍ジャパンに選出され、世界一にも輝いた内野手のもとには5球団から調査書が届いている。そんな相羽がプロ入りを強く望むのは、決して自身の子どものころからの夢というだけではない。「どんなにつらい時も、頭の片隅には優の存在があったと思う。優の分までという思いは常にありました」
大学に合格し野球部に入ることを決めていたが…
相羽選手の中学硬式野球チーム磐田ボーイズのチームメート・吉岡優(よしおか ゆう)さんは高校2年の11月、横紋筋肉腫という小児がんがステージ4であることを告げられた。吉岡さんは浜松市内の高校で4番キャッチャー、公式戦でホームランを打つなど、その年に静岡高校の2年生レギュラ―として甲子園の土を踏んでいた相羽選手の存在も励みに、熱心に高校野球に打ち込んでいたが、一旦グラウンドを離れ、治療に専念することに。12月には抗がん剤治療や放射線治療に着手し入院生活となるが、その吉岡さんを必死に支えたのが相羽選手や中学時代のチームメートだった。
「優、大丈夫かー」「優、来たぞー」つらい闘病生活も、こうした仲間のサポートや本人のたゆまぬ努力で3年生の秋には学校に通えるようになり、大学にも見事合格。野球の指導者になりたいと、大学では野球部に入ることを決めていた。
「きょうは調子がいいです」と笑った翌日に…
そんな矢先、がんの転移が見つかる。2021年4月20日、治療を終えて自宅に戻ってきていた吉岡優さんを取材すると「きょうは調子がいいです」と笑ってくれた。治療を頑張る原動力はやはり仲間だった。「(相羽くんや)いろんな人が支えてくれる、みんなが頑張ろうという気持ちにさせてくれます。もう一度グラウンドに立ちたい」と、その強い生命力に胸を打たれたことを筆者自身きのうのことのように覚えている。しかし2021年4月21日、自宅で容態が急変、吉岡優さんは18年という短すぎる生涯に幕を下ろした。
通夜と告別式には多くの野球仲間の姿があった。高校時代、そしてヤマハに進んでからも練習の合間をぬって励まし続けた相羽選手は告別式で弔辞を読み早すぎる別れを惜しんだ。
数日後にヤマハ野球部を訪れると、いつも以上に声を出して練習に励んでいる相羽選手の姿があった「優もこうやって声をよく出していた。亡くなってから最初の練習はちょっと難しかったが、野球ができることも、普通に生活できることも当たり前じゃない。優の分まで、一日一日を全力ですごさないといけない」と、仲間に2年後のプロ野球入りを誓った。
あれから2年…相羽選手はドラフト候補に
あれから2年。相羽選手はドラフト候補として順調に成長。貴重な右打ちのショートだが、今年は春先に肉離れをして、都市対抗野球で準優勝に輝いたチームにおいて本人曰く「やや不本意な」シーズンを送っている。それでもこの2年間、どんな試合でも応援に駆け付けてくれたのが吉岡優君の両親、父・孝満さんと母・有希さんだった。父・孝満さんは自分のことのように「ドキドキですね‥」どドラフト指名を心待ちにし、母・有希さんは「息子の代わりといってはいけないけど…優を失い、心の穴は埋まらないけど野球応援が支えになっています。寛太の幼い頃からの夢、プロ野球選手。私達が出来る事は見守る事しかなくて優もきっと一緒に想って居てくれる事でしょう…今後どのチームに行っても変わらず応援出来たら」その目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
そんな吉岡さんの両親に相羽選手は「球場を見たら必ずというほどいて、自分の両親以上に自分を応援してくれている。プロになって恩返しがしたいです」と意気込む。
墓前に報告したいことは「指名された球団」
ドラフト会議を直前に控えた23日、相羽選手は吉岡さんが眠る浜松市内の寺を訪れた。毎月の月命日前後には必ず訪れ、吉岡さんの実家にお邪魔するのがルーティーンだ。
「世界一になったこととかけがのこととか、都市対抗のこととか毎回報告するのがこの場所だった」
次の報告は指名された球団名と、“みんなの夢”が叶ったことを報告するつもりだ。
取材:静岡朝日テレビアナウンサー片山真人