「戦後80年~体験をつなぐ~」 戦争を体験していない「語り部ママ」が体験者から託されたバトンを引き継いでいく理由

シリーズでお伝えしている戦後80年「体験をつなぐ」。浜松市に住む女性が戦争を知らない世代として、語り部の活動に見出した意味とは。
●松澤さん(語り部):
「飛行機のお腹が開いてまるでごみを捨てるみたいに爆弾を落としていきました。息もできないほどの恐怖でした」
小学生に戦争の話をする松澤美保さん、47歳。戦争体験者から聞き取った話を語り継いでいます。この日話しているのは浜松大空襲の日の出来事です。
●松澤さん(語り):
「駅の方の空は真っ赤。裏庭のくぼみに作った防空壕に逃げましたが、ここではだめだと思い、すぐ家に引き返しました。すでに一面火の海でした」
1945年6月18日。アメリカ軍のB29が浜松に飛来し、6万5000発の焼夷弾を投下。市街地の大部分が焼け野原になり、1157人もの尊い命が奪われました。
それから80年。松澤さんは戦後生まれの有志でつくる「かたりべの会浜松」に所属。会長の飯尾忠弘さんは次世代の語り部の育成が課題だといいます。
●飯尾忠弘さん(77):
「(戦争経験者の多くが)90歳を超してしまう。『家に来てくれればお話するが外へはもう行けない』という方が多くなってしまっている」
メンバー最年少の松澤さんは英会話講師として働きながら、中高生2人の子どもを育てています。
語り部との出会いは2年前。小学5年生だった長男・壱知さんの夏休みの課題で浜松の戦争に関する調査を手伝ったときでした。
●松澤美保さん:
「祖父は兵隊として戦地に出ていましたし、祖母はこの辺りに住んでいたので、もっとしっかり聞いておけばよかったかなと」
そんな中、松澤さんは語り部育成講座の案内を見つけ、参加。仕事と子育てをしながら戦争について調べるようになりました。
●松澤美保さん:
「両立とまではなかなか正直できていないと思うんですけど、自分にできることをやれたらいいなと」

そして2024年、壱知さんの小学校の先輩、野田多満子さん(87)と出会ったのです。
●松澤美保さん
「『私は今でも戦後だって思っている』とおっしゃったのが一番記憶に残っている言葉。『傷が続いている』『まだ戦争は終わっていない』という意味なのかなと私は捉えた」
今小学生に伝えているのは野田さんの体験談です。当時7歳だった野田さんは母親と姉と3人暮らし。そして浜松大空襲の日を迎えます。
●松澤さん(語り):
「鴨江観音あたりは焼き尽くされてすべて灰。灰の死の世界のようだった。近所の女の人2人が来て声をかけました。『あなたたち生きてたの?』『お母さんなら死んじゃったわよ』と言うと、どこへ行けばいいか何をしたらいいのかも教えてくれずにどこかへ行ってしまいました」
焼夷弾が落とされ火の海の中母親は友人を探しに防空壕から出て行きました。そしてすぐ近くで亡くなっていたのです。
●松澤さん(語り):
「(空襲の後)親戚の家に住まわせてもらっていました。食べるものはほとんどなく、薄い白い色の汁が食事として出されていました。お酒の配給もありました。あまりの空腹にそのお酒をラッパ飲みで飲んだこともあるそうです」
松澤さんの話を聞いて子どもたちは…
●小学6年生:
「鴨江観音などの近くにあるお寺も被害を受けて、消えて更地になってしまったというのを聞いて、すごくショックを受けました。ウクライナのこととかもう3年くらい続いていて、その人たちは自分とは違うって最初のころは思っていたけど、大変なことなんだなと思った」
●小学校6年生:
「浜松も戦争があったのは聞いていたけど、こんなひどいものだとは思いませんでした。世界の戦争も全部収まって、みんな仲のいい未来が来たらいいなと思う」
自身が体験していない戦争の話を伝えることについて松澤さんは…
●松澤美保さん:
「本当のところは伝えきれていないかもしれないし、心配なところではあります」
それでも戦争体験者から託されたバトンを引き継いでいく意義はあると思っています。
●松澤美保さん:
「本当に個人がつらい思いをして、それを何十年も引きずって生きていることまでは、あまり報道されないし教科書にも載らない。でも実際はそういうことがあるんだということを伝えることができればいいなと思う」
Qいつまで続けますか?
「戦争が無くなるまで」
